[お笑い]根拠なし!④「救いって、何ー?」(しつもんずい風)

そんな感想を持ちつつ就寝した翌日、地元紙にボケとツッコミと「救い」についてかいてある「笑ってシアワセ」と言う記事を発見。またツッコミに関して考えてみた。わしの仕事はなんだろね。
業界用語からすっかり浸透したボケとツッコミ。*1日常会話のおもしろみから漫才が生まれ、また一般会話へとフィードバックされていると言う関西の例で始まるこの文章は、トリオ芸を例に東京の笑いにあった「救う」と言うポジションの指摘し、「テレビ芸」からの「救い」の消滅を欽ちゃんが語る言葉を引いて、教育現場で笑いを扱うには高度な技術が必要で、まずやさしさがなければいけないと結んでいる。あの教師の言葉が原因となったいじめ事件を踏まえて書かれた記事らしい。
ボケの欠点をツッコミが突くってことがいじめで、それをやりっぱなしにしないで救ったりあく抜きしたりするのが「救い」の役目だそうだ。うーん。
わたしは読んでいて、ちょっと違和感があったんだけど、戦後、寄席に変わって、時間を切り売りするメディアであるテレビがお笑いの主戦場になっっていったのだが、80年代を境に「救い」が省略されてしまい、ある意味間違いが起こったとあった。その頃の子供だったものの感想を言わせてもらえば、80年代を境にボケの役割が変わったから「救い」が消えたってことも大きいんじゃないか?
80年代以前の主流のボケ=足りないとかそういう類の愛すべきバカだったのだが、漫才ブームの立役者たち、たけし、洋七、紳助は頭の切れるボケだった。ツッコミは翻弄されることで笑いを増幅する機能を持ち始めるようになる。場をリードするボケに「救い」はいらない。ボケ=かっこいいリスペクトされるバカ(存在)がブームを引っ張った。
以後、テレビの笑いのトップを走るグループのボケ*2は、かっこいいと同義で形容されるようになった(し、実際かっこよかった)と思う。第3世代以降になると、きわどくシュールなボケをツッコミがなぞったりわかりやすくするような流れが出てくる。トリオでも「救い」のポジションがなくなり、ツッコミにも新しい流れが出来てくる。「ボケ」「大ボケ」「ツッコミ」のダブルボケ+パワーツッコミ*3のスタイル、これと同じ仕組みで、大所帯のボケをツッコミが1人で仕切るスタイル*4などが出てくる。コント番組以外のバラエティ番組をお笑い芸人が仕切るようになると、本来、笑われる役を負う必要のない俳優やタレントもボケ始めるようになる。アイドルやミュージシャンまでボケ始めると、ツッコミは交通整理的な役割を負い始める。ひな壇のあるトーク番組ボケが多数VSツッコミ1人ならば、ツッコミが一見独裁者のように見えても、そこに翻弄されるツッコミという笑いが生まれるので、またそこでもボケへの「救い」はいらなくなってくる。そんな風に「救い」のポジションは消えていったんではないのかなあ
古いところではボヤキ漫才のツッコミは「たしなめる」だし、ビート漫才のツッコミは「暴走を止めようとする」だろうし、口げんか漫才では双方負けてはいないだろうし、やすきよはボケツッコミ入れ替え自在だったし、最近は、ボケと友達とか、ボケと癒しとか、ボケと肯定とかボケと応援とか、ボケと傍観とか、ダブルボケとか。タカトシなんか突っ込みも途中から殴られ始めるし。いいか悪いかワカランが、ツッコミに困惑するボケというますだおかだみたいなこともありえるんだし。
お笑いを楽しんでいる人にはそんな簡単にボケとツッコミの役割を分けられるわけないってわかっていることなんだけど。良くわからない人がお笑い批判したり、わかった振りしたり、芸人の発言を中途半端に引用するからおかしなことになるんと違うのかなあ。

以上妄想、失礼しました。

*1:滑稽な振る舞いをする人物(=ボケ)と、ことさらにその逸脱振りを指摘するもう一人の人物(=ツッコミ)と記事では規定

*2:この流れの先にダウンタウン松本がいる。ほか、爆笑問題太田とか。ボケの切り取り方の知性を注目されたりす例も出てくる。

*3:シティーボーイズとか

*4:ダウンタウン浜田以降のバラエティ番組