上下をつける

この前、『笑福亭鶴瓶落語会 青山寄席』に行った時、たいしたことではないんだが、見ていて不思議に思ったことを隣の席の連れに話したんだけど、そのまま忘れていたこと思い出したのでメモ。
瓶成の『いらち車』を聞いた。偶然だけど、その数日前に、テレビで彦一の『反対車』を聞いていたので、予習ばっちり。本家・上方と江戸との違い、演者の違いなどにも目がいって、楽しく聞けた。
中盤から、ほんとに小さい違和感みたいなものがわいてきて、「?」と思いながら聞いていた。そして、後半、超特急の車夫との会話になってやっと腑に落ちた。
あ、上下!
上下のつけ方が、人力車の車夫と客なので前後の振りにに近くなっているんだ。しかも、足の早い車夫は猪突猛進タイプなので、全力疾走で前進する車夫と、車に揉まれてしがみつく客という対比になり、上下でなく、前を向いた二つの動作で演じ分けていた。落語で通常よく見る左右に振る動きがなかったために感じた違和感だったんだ。あー、すっきり!
ライブってすごいな。テレビでは「身振りの大きな話だな」と思っただけだったんだけど。
テレビで落語を見るときに、どうしてもスケールダウンして感じるのは、演劇と同じ理由なんじゃないかと思う。一番大きい理由は、現場の空気感が伝わらないことにあるんだろうけど、個人的にはカメラ割りが演者や演出、物語と観客の個々の生理にあっていないということも物足りなさの原因なのではないかと思う。舞台を見る観客の目は自分の見たいとこだけ切り取るカメラなので、100人いれば100人見え方が違う。顔に注目している人の隣では、所作に惹かれる人がいる。顔をクローズアップしている人の中にも、表情に注目している人もいるし、ただおかしな顔だねえと思ってる人もいるかもしれない。あそこで名人はああやったとインサートを入れてる人もいるかもしれない。その、個人的な(心地よい)カメラ割が、テレビと合うことはあまりないような気がする*1。人の目の不思議なところは、注目点が限定されても、そのほかの部分を無意識のうちにフォローできていると言うことなんだよね。ライブでは、目だけではなく、もっと多くの感覚が働いて情報を取り入れているし。でも、テレビだと、見えている部分しか感じられない。だから万が一、上下殺すカメラ割なんかされたら、話の意味を上手く捉えられなくなるかもしれない。ならばベタ付けで放送すればいいのかといえば、そのほうがありがたい部分もあるが、味気なくもある。勝手だな(笑)。客席の一箇所から動かないで高座を見ているにもかかわらず、観客は結構自由に視点を動かしているってことなんだろうけど。
不思議なことに、ラジオや読み物での落語には余り不自由を感じない。耳だけのラジオは、上下なんか全然見えないのにも関わらず、混乱することもない。演者が巧みといえばそれまでなんだけど。
ラジオは五感の一つを捕まえてこちらに訴えかけてくるメディアなんだけど、テレビは目と耳の二つを支配する。耳で聞いた落語を頭の中で想像(フォロー)して理解することは簡単なんだけど、限定条件が増えると想像の幅が目減りする。情報が多いことでかえって不自由になってしまう。うーん不思議。五体のうち、一肢を拘束されるよりも二肢を拘束されたほうが身動き取れないような感じ、って、大袈裟だが。
ま、上下で広がった妄想です。ご容赦ください。

桂南光の話
http://www.d-radio.jp/column_03.html

*1:ただし、例外として、演者や制作側の意向が反映される商品化された映像はのぞいたほうがいいかもしれない